スクリーントーンをまったく使わない、細い手描きの線を重ね合わせた描画で、素朴でほわほわした雰囲気の漫画。トタン屋根の連なるスラムの風景なんか、滝田ゆうの絵柄に似ているなあ、と思っていたら、あとで知ったけど、作者、滝田ゆうが好きなんだって、やっぱり。
物語は原爆投下10年後の広島を描く『夕凪の街』、その32年後の東京『桜の国(一)』、そして平成16年の東京『桜の国(二)』の短編三部作。
三篇の通奏低音として流れているのは、「ヒロシマ」。その重いテーマをほわほわの絵柄と飄々とした広島弁で描いている。
実は、1回読んだだけじゃ、よくわからなかった。
なぜ、皆美はノースリーブのワンピースを拒んだのか、とか。
3作目に出てくる「元春伯父さん」って誰だったっけ…?とか。
緑地でお父さんが会って一緒にお弁当を食べている人は誰だろう…?とか。
何度か繰り返し読んで、ああ、そういうことだったのね、と気づくと、その時、ずしん、と何かが刻み込まれる。
きっと小説だったら、これこれこういうわけで、と言葉で語られる事柄が、せりふのないひとつの絵で表現されている。
この感覚を味わうのは漫画の醍醐味のひとつだ、と思う。
そしてもうひとつ。
最近のデジタルな絵を見慣れた目に、この頼りないような手描きの線描は、古くさいというより新鮮だった。
それは大げさにいえば、ひとつの世界観を取り戻したような感覚。
定規で描いたような、コンピュータで色付けしたような街を、それが「普通」だと思ってふだん見慣れていた。
しかし、いったん、この「手描きの眼」とでもいうのだろうか、その眼で街を見ると、瓦屋根はゆがみ、電信柱はざらざらとした感触になる。
いや、こんな田舎町でさえ、そういう風景は少ないのだけれど。
きっぱりとした線で整然と並ぶ景色も、均一に塗られた背景も美しいとは思うけれど、息が詰まる。
そんなとき、ゆるやかな線で丁寧に描きこまれた、この絵を見ると、ほっとする。
その感覚は、自然素材の手づくり雑貨に心魅かれる感覚と似ている。
でも、最近のエコブーム、スローライフブームの中で、洗練されファッション化されてきたそれとは違う、もっと魂に深く触れるような根源的な感覚。
それは「ヒロシマ」というテーマが描かれているから感じることかもしれない。
だとしたら、主題に近づくための方法としての漫画が、まさに成功しているということなのだろう。