いつか行った台湾 その1

はじめに
  もう、いつのことだったかも覚えていない。
当時のメモもパスポートも手元に残っていなくて、
あやふやな記憶でこの旅行記を書くことになる。
半分フィクションのようなものになっちゃうかもしれない。
でも、うっすらとでも記憶が残っている今のうちに
あのときのことを書いておかなければ。
初めての海外ひとり旅は、台湾だった。

旅のはじまり
  そのとき、私は日本という国の一番西の端っこにある島で暮らしていた。
その島からは、年に数回、天気のいい日には台湾が見えた。
私も1回だけ見たことがある。
うっすらと見えた島影は思っていたよりもずっと大きくて
こんなに近くに台湾があるなら、行ってみようじゃないの、と
思ったのが、はじまりだった。
当時の私はまったくお金がなくて
旅のために絞り出した費用は10万程度だったか。
これで、ビザが必要ない期間・・・約2週間たっぷり遊ぼうという魂胆。
もちろん交通費込み。
お金の不足は体力で補え。
これが、貧乏旅行の鉄則だ。
1ヶ月前からジョギングと縄跳びでからだを準備した。
安く行くなら船。
船なら、石垣島から乗ることが出来る。
しかし、離島の悲しさ、パスポートは那覇まで行かなければとることができない。
私の台湾への旅は、まず那覇へ向かうところからはじまった。

1987年6月のことでした(たぶん)。

とりあえず那覇
船を乗り継いで那覇へ。
港に着いたのは早朝。港から国際通りまでリュックを背負って延々歩く。
小さい離島から来ると、なんと都会であることよ。
パスポートを入手するまでの数日、那覇に滞在することになる。
国際通りのどん詰まりにあるユースホステルに荷を下ろし
毎日ぶらぶらと那覇の町を出歩いた。
無駄遣いはできないので、食事といってもパンを買ってきて
ユースに備え付けのコーヒーで済ませた。
少ない予算ではあるが、さんざん迷った末やっぱりほしい、と
小さなカメラを買った。
石垣・白保の空港建設反対運動をしている市民グループの事務所に行って
一晩泊めてもらったりした。

那覇から台湾へ行く船は、基隆行きと高雄行きがある。
私は高雄行きに乗る。
南から逆S字形に北上して台北から帰るルートを計画したのだ。

乗船の日。
チケットとパスポートを見せると乗務員が
「ちょっと待ってください」と呼び止める。
え、何かまずかったのかな?と一瞬不安になったが
乗務員は1通の絵葉書を手渡してくれた。
遠く内地にいる友人からだった。
旅の予定なんて全然知らせてなかったのに、
この船に乗船することをどうやってつきとめたのだろう???

乗船   
船は空いていた。
客室は私ひとりだった。
石垣までの航路を、伴走するトビウオを眺めながら過ごした。
石垣で停泊。いったん下船して、出入国管理の手続きを取る。
港の脇のプレハブのような小屋で簡単なチェックを済ませる。
船に戻ると、一気に人が増えていた。
ほとんどが台湾から来た「かつぎ屋」のおばちゃんだ。
化粧品や服、薬やお酒などを石垣で買い込み台湾で売るのだ。
そんな中で、声をかけてきたのが
日本人の一人旅のおやじと、台湾人の青年だった。
日本語の達者な青年は留学を終えて帰るところだと言った。
「速読の勉強をしている」と言って本を貸してくれた。
船に乗るときは、ジューシー(炊き込みご飯)のおにぎりを
持ち込むのが私の定番だ。
船内の食堂に行かず、おにぎりを食べていたら
青年がかつぎ屋のおばちゃんからもらったと言って
お菓子やお惣菜をわけてくれた。
カエルの足のから揚げを、初めて食べた。
おやじの方は、
当面の台湾での目的地が同じだったため、同行することになった。
--それで、ちょっと頼まれてくれないか。
耳打ちされて船内の免税店に連れて行かれた。
台湾へのお酒の持ち込みはひとり1本となっている。
--お金は払うから。
私も1本買え、と言うのだ。
持ち込んだお酒はどこぞに売るルートがあるらしい。
アブナイ話でなければいいけど・・・。
あとで聞けば、よくある話であったようだけど
当時の私はそういうことにはまったくの無知だったので
どこか気分に後ろめたさを感じながら
お酒を買うこと自体は問題ないわけだし、と購入したのだった。

船中2泊。

八重山の鮮やかなリーフを離れると
海はどんよりと群青が濃く
深いうねりが何度も押し寄せる。

遠く水平線まで細かい白波がいくつもいくつも立っている。
ここから台湾まで、島はひとつもない。
風が強く吹き、船は傾いたまま航路を西に向かう。

→その2


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